2011年05月30日

裁判 A

ぼんやりネットサーフィンをしていたら、裏サイトで知り合った男3人が女性を惨殺した事件で、極刑を求める署名活動に何万人も署名したと言うニュースが出ていた。
ネットを使って短期間に集めたと言うことだが、なるほど、今はそういうシステムがあるのかと思った。
ちらちらと調べてみると、なかなか興味深い仕組みである。
うちもやってみたらどうだろうかと思った。
もっとも、こちらは良くある飲酒交通事故で世間的に耳目を集めるような要素は何もない。
だが、友人知人に声をかけたら少しは署名も集まるかもしれない。

葬儀が終わってから調べてみたのだが、交通事故というのは笑えるほど刑が軽い。
悲惨な事故が相次いで危険運転致死傷罪と言うものができ、自動車運転過失致死罪と言うものもできたが、それでも軽い。
まるでハンドルを握った人間が轢いたのではなく、車が勝手に走っていって人を殺したかのような扱いである。
しかも、裁判で加害者に情状酌量する点をどんどん見出して、刑はどんどん軽くなる。
反省した態度を取っていると軽くなる。
わざと轢いたわけじゃないと軽くなる。
日本の刑法は殺され損と聞いていたが、本当にそうである。
死んだ人間には人権がない。
ダンナにはもう人権がない。
そんなバカみたいな裁判をただ傍聴して、判決が言い渡されるのを聞くのは、遺族にとって地獄だ。
ダンナが二度殺されるのを見るようではないか。
しかも司法の場で。
何でもいいから、自分にできることが何かやりたかった。

もちろん極刑を求めてなんかいない。
ただ、車が勝手に轢いたんじゃなくてドライバーが、それもいけないと分かっていて酒を飲んだ上で轢いたんじゃないかと言いたいだけだ。
そういうのを『過失』と呼ぶのはおかしい。

その無責任運転が、まだ49歳という年でダンナから人生を奪った。
まだまだやりたいことがたくさんあった。
オレ、もっと走れる気がするんだ。まだまだこれからなんだと言っていた。
子どもの成長を見るのを楽しみにしていた。
自分が親にあまりかまってもらえなかったので、息子の行事には会社を休んででも出ていた。
夫婦ふたりでやりたいこと、行きたいところもたくさんあった。
全部、なにもかもが失われてしまった。

私の一番大事なものが奪われた。
ダンナが帰ってきてくれるのなら、自分の健康も、夢も、仕事も、すべてを投げ出してもかまわない。
ただ顔を見ることができるなら、寝たきりになってたってかまわない。
帰ってきてほしい。それだけを一日中願っている。
だが、絶対に二度と戻ってはこない。

息子は父親が大好きな子だった。
反抗期らしい反抗期もなく、父を自分のヒーローだと思っていた。
突然の大きな存在の喪失に、自分の気持ちを表すすべを息子は失ってしまった。
ただ悲しい顔をして、何をしても父は戻ってこないと言う。

そんな不幸を私たちにもたらしたものを『過失』だと、『反省している』と、『わざとではない』と呼ぶ法律は絶対に間違っている。

近所の友人と高校時代からの友人に署名についてメールを投げてみた。
すると「何かやるんだったら手伝うよ!」という励ましの言葉や、「そういう場を設けることは、遺族のみならず、故人の死を無念に思っている友人や、遺族の悲しみをみて憤りを感じる友人の気持ちを晴らすことにもつながるから、決して無意味ではないと思う」という言葉や「こんなサイトがありました」というメールをもらった。
本当にありがたい。
やはり持つべきものは友人である。

その「こんなサイト」の中に『交通事故死被害者マニュアル』(第2版)と言うものがあった。
これは交通事故死した被害者の遺族が通過する不愉快な道と、そこで遺族がすることのできる数少ないことをマニュアル化した優れたサイトであった。
ざっと読んでみると、今までのところ道を外していないようだ。
これからやるべきことの中に、署名もあったし、大きいものでは被害者の意見陳述というものがあった。
確か遺族調書を取った時、叔父が警察の人にできるかどうか聞いていたようだ。
警察の人は「それは検事さんが判断することだ」と言っていたように記憶している。
マニュアルに寄れば、しっかりはっきり検事さんに頼んで、裁判ではぜひ意見陳述してほしいということであった。
もちろん、警察の人には頼んでみるつもりであるが、そのほかに打つ手はないものだろうか?
警察でもらった小冊子に県の相談センターなる窓口の電話番号が載っていたので、千葉に電話してみた。
すると、埼玉のことは埼玉に聞いてくれと言う。
あわてて埼玉に電話したが、すでに業務時間は終わったようだった。
翌日火曜、息子と警察に遺族調書を取りに行く日である。
葬儀で予備校もかなり休んでいるので、そうそう休ませるわけにも行かない。
授業が終わってから新幹線で行くことにして、東京駅で待ち合わせをする。
それまでの時間を使って埼玉の相談所に電話してみた。
そういうことは検察にじかに話してもらいたいと、埼玉の検察庁の番号を教えてくれた。
今度はそこに電話すると、ここは浦和だが担当検察庁は熊谷じゃないかと言う。
「まだ担当の検事から電話はありませんか?」ときかれたので何もないことを話すと、「じゃ、検事から電話入れるように伝えますね」と言ってくれた。
ほどなく担当の検事と言う人から電話が来た。
なんだか意味もなく声を出して笑う人で、一体どこにそんな笑うようなことがあるのかとちょっと不思議になる。
「こっちからお電話するつもりだったんですよ」(笑)「まだ起訴不起訴決まってませんが、審理中です」(笑)「今週の金曜に起訴か不起訴か決まります」(笑)
これを聞いてびっくりしてしまった。
まだ息子の調書を取っていないのに、もう審理に入っているとはどういうことだろう。
金曜に起訴か不起訴かが決まるなんて早すぎる。
慌てて意見陳述の話しをしたら、「私からもお勧めしようとは思っていました。6月の末にでもこちらに一度お越しいただけませんか?相談しましょう」ということで電話は切れたのだが・・・
マニュアルを繰ると検察での取り調べ段階はひじょうにだいじであると書かれている。
なぜなら、ここで求刑する量刑が判断されるからである。
警察では、被害者も見ているし、事故車も見ているし、目撃者の調書も取っているし、遺族とも会っている。
だが、検察ではそれらが書面になったものしか目にしない。
それを元に量刑が判断されるのである。
ぜひ被害者遺族の心情を理解していただくためにも、上申書なるお手紙を書くべしということだ。
飲酒の上、ブレーキも踏まずに即死させたのだから、まさか不起訴になったりはしないだろうと思ったが、いても立ってもいられない。
上申書だなんて、なんだかよくわからないが、とにかくマニュアルにのっとって手紙を書いた。
だが、今日は火曜。起訴不起訴が決まるのは金曜。
郵便で出していては間に合わない可能性がある。
警察に行く時、ちょうど熊谷を通るので、ついでに置いてこようと思った。検事さんに手渡せなくても受付に預ければよいだろう。
すると息子から、東京駅に着いたという電話が来た。早い!
約束の時間を勘違いしたらしい。
これは検察に行けという天からの声と思うことにして、上着を引っつかみ家を飛び出した。
走って走って電車に飛び乗り東京駅を目指す。
総武快速のホームと新幹線のホームは一番端と端でとても遠い。
移動しながら熊谷検察に電話を入れ、今、新幹線で向かっているから書類を受け取ってほしい旨を告げた。
息を切らせて新幹線乗換え口についたが息子の姿が見えない。
東京駅の新幹線の乗換え口はたくさんあって、場所も離れていたりする。
息子に電話すると「南乗換え口と書いてある」と言ってきた。
いやな胸騒ぎがした。
1年前、川の道をリタイアしたダンナを迎えに東京駅に来た。
中央乗換え口に来てみたがダンナの姿が見えない。
電話してどこにいるかと聞いたら「南乗換え口」といったような気がするのだ。
駅員さんに南乗換え口の場所を聞いて小走りに向かう。
ああ、そうだ。やっぱりここだった。
なんと言う偶然、一年前にダンナが立っていた場所に息子が立っている。
こんなのはあんまりだ!
あまりにも何もかもすべてが変わってしまった。
あの時は、憔悴したダンナのことが心配だったが、ダンナは生きて私の元にいた。
私が笑いかけたら笑っていた。
今回はリタイアしたけど、走れない気がしない。
次は必ず完走するといっていたのに・・・
なのに、一体なんでこんなことに。
ゴールデンウイークが来るたびに、警察から電話をもらった時の、警察に向かって池上線に乗っていた時の、シートがめくられダンナの死に顔を見た時の、すっかり冷たくなったダンナの頭を洗った時のことをまざまざと思い出すだろう。
ハイドロチューブに着いていたダンナの血を、友達が見つけてくれた轢かれた時に飛ばされた携帯を、切り刻まれたランニングウエアを、役に立たなかった反射板を、カメラに収められたダンナの笑顔を、納棺されたパラ企ののぼりを、小さな骨になってしまったダンナの最後を思い出すだろう。
そんな重たい記憶を担いで、私は一生生きていかなくてはならないだろう。

この運命は変えることはできなかったのだろうかとまたしても思い悩む。
私が電話していたら。
誰かがメールしていたら。
ハンドライトの電池を換えようとコンビニに寄っていなかったら。
その前に、私が出場を止めていたら。
ダンナがランニングに出会わなかったら。
たら。たら。たら。たら。たら。たら。たら。
果てしなく続く『もし〜だったら。』
無意味な苦しい時間がだらだらと過ぎていく。

気がついたら熊谷だった。
posted by とんべり at 00:37| 千葉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | タヒチ走遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月29日

裁判 @

仕事は葬儀の翌週から復帰した。
たいした収入ではないが、ここで職は失いたくない。
不況だし、年だし、一度手にしたものはそう簡単に手放せないのだ。
だが、やらなくてはならないことが山のようにある。



各種手続きは言わずもがな。
この手続きというヤツ、面倒くさいだけではない。
遺族にとって、非常につらい仕事である。
要するに、故人と社会との関係を自分の手で切っていく作業の連続に他ならない。
あっちの手続きやこっちの手続きに必要な書類は、『死亡』『死亡』『死亡』と書いてあるものばかり。
ケータイだって本人じゃないと解約できない。
センターに電話して「本人は解約に行かれません」と言ったら「どうしてですか?」と聞かれる。
「亡くなりました」と答えると「あらー、死亡届が要りますね〜それ持って窓口に来てくださーい」と明るい声。
うんざりして「書類を送るだけではいけませんか?」と聞けばむっとして「ムリですねぇ〜」と言われる。そんな簡単なことが何でできないんだと言わんばかりである。
彼女の世界には死の影なんかひとかけらもないんだろうなと想像できる。
キラキラ明るい清潔で幸せな世界。

入っていたわずかな生保も、ダンナの会社からでる見舞金や埋葬金も、なんだかダンナの命がお金に換わっていくようで手続きすること自体が汚らわしい。辛くて辛くてしょうがない。
手続きに行こうと書類を手に取るだけでお腹が下ってしまい、ズルズル先延ばしにしている状況だ。
死亡だとか事故だとか暗い文字ばかりの書類を見ながら、ダンナが帰ってきて、こんないやなものはもう見なくていい、全部悪い夢だったんだ、心配するなと言ってくれたらどんなにいいだろうと思う。
一日中、体の中で内臓をつつきまわしている喪失感、無力感が突然大きくなって、心臓をえぐり出すような激痛に変わる。
体を二つ折りにして耐えるが、こんなに痛いのにまだ生きている自分がふてぶてしくて情けない。
簡単に死んでしまう人もいる一方、なかなか死なない人間もいる。不公平だ。



だが、なんといっても一番たいへんなのは裁判である。
飲酒運転の車に轢かれて死亡しているので、加害者が刑事罰に問われることになる。

まずは、遺族調書を警察で取るために秩父まで遠出しなくてはならない。
だがその前に、病院で看取ってくれた医師から話を聞きたいと思い、午前に病院、夕方に警察という強行日程でダンナのおじおばをお供に秩父へと向かう。
病院は大きくて近代的な赤十字病院で患者さんも多い。
11時に入って医師に面会できたのは2時過ぎだった。
30代くらいのまだ若い先生は、疲れているだろうにいやな顔もせず詳しく説明してくれた。
生々しい話だった。
パッと見、あまりダメージがなく出血もほとんどないが、レントゲンを撮ったらあちこちの骨がボキボキに折れてたそうである。
肋骨が何本も折れて、ひざは粉砕。腕も骨折。
だいじなダンナの体をそんなにされて、真っ黒な気持ちになる。
車のスピードが出ていて、衝突のエネルギーもかなりのものだっただろうと医師は言っていた。
警察の話では、ただ首の骨が折れたというだけで、そのことだけ聞けば打ち所が悪かったみたいに取れなくもない。
辛かったが医師の話を聞いてよかったと思った。

次に警察署に行く。
この時、調書をとってくれた警察の人は、最初に会った担当の人(「早く死体持ってかえって」と言ったヤツ)ではなかった。
渋い声で怖い顔の、私よりちょっと年上の人だったのだが、意外なことによくダンナのことを知っていてくれた。
目撃者のOさんの調書をよく読んでくれていたのではないだろうか。
遺族調書というものがどんなものだか良くわからず聞かれることに答えていたら、警察の人が私が言ったかのように作文している。
ふーんと思いながら最後に読み上げられたものを聞くと、こちらの気持ちに配慮した同情的な内容のように思われた。
警察も非情な人ばかりではないんだと思いながら帰途についた。

が、帰宅してから、自分のことばっかり話して息子の思いを伝えなかったことにハタと気づいた。
裁判というものは加害者のためのもので、被害者遺族は裁判が始まってしまえばただ傍聴するしかないのである。
言いたいことがあるなら遺族調書で言うしかないのに、一体どうしようと真っ暗な気持ちになってしまった。
泣きながら、同情的に思えた警察の人宛に手紙を書いた。
「息子の思いを伝え損ねました。今から加えていただくことはできないでしょうか。」
すると電話がかかってきて「奥さんの調書はもう送ってしまったけれど、息子さんが来てくれたら彼の調書は取りますよ」と言ってくれたのだ。
来週の火曜夕方に行く約束をした。
よかった。分かってくれようとする人もいるんだ。
大事なダンナを『死体』呼ばわりするような人ばかりじゃないんだ。
ほんのちょっとだけ気持ちが明るくなって、その時流れた涙は、いつもみたいにどす黒く血みたいに赤い涙ではなかったように感じた。
posted by とんべり at 19:02| 千葉 | Comment(2) | TrackBack(0) | タヒチ走遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月15日

花と命

部屋の中はユリの香りでいっぱいだ。
式場から持って帰ってきた大きな菊の生花にユリも数本挿してあって、これが非常に良い香りだったのだが、この暑さでどんどん開き、どんどんその命を燃やし尽くしていく。
ユリが終わりかけ、少し淋しくなってきた時に、ダンナのお友達からジャーマンアイリスとユリの大きな花束が届いた。
アイリスの淡いブルーと濃いブルーのグラデーションに、白、ピンク、黒のユリのアクセントがすばらしい。
そして、その香り・・・

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それまで私はユリの香りはそれほど好きではないと思っていた。
だが、ダンナの葬儀の生花の祭壇―タヒチの海をイメージした白とブルーの花々―にユリがたくさん使ってあったからであろうか。
なにやら哀しいような、淋しいような、だが、何かしら心を癒す香りとして私の中に定着したようである。
帰宅してまず出迎えてくれるのがユリの香りであるが、まるでダンナが迎えてくれたような気分になる。
ユリの香りにそっと「ただいま」と応える。

親しい人を失って初めて分かったのだが、花の贈り物がとても嬉しい。
なぜなのだろう?
たぶん、切花で命が限られている中、それでも懸命に水を吸って美しく花開き、やがて朽ちていく姿に人の一生を重ねるからなのだろう。
それに、故人にはもう何もして上げられないが、せめて花は少しでも長く生きてほしいと毎日いつくしんで水をやっている。
「水をあげる」
その単純な行為が、己の無力感を、無念さを、少し癒してくれる。

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お花に、くださった方のお人柄が偲ばれるのも嬉しい。
タヒチ関係のお友達は、ブルーと白のタヒチらしいアレンジメントを送ってくださった。
ダンナのお友達で遠くで花屋さんをやっている方からは、白の胡蝶蘭をメインにした白いアレンジメント。
母の友人からはかわいい白とピンクのガーベラのブーケ。
いとこからは芍薬と蘭のアレンジメント。

そして私からは庭のバラ一輪。

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美しい花もいつかは終わりを迎える。
人もいつかは終わりを迎える。
それまで、一生懸命水を吸って命を燃やしていこう。
与えられた時間の中で。

IMGP4915.jpg
ラン仲間で画家の方から頂いた花の絵
朽ちない花
一瞬を永遠に閉じ込めたいという人の願いが絵画や写真を生み出したのだろう

IMGP4916.jpg
パラ企さんから頂いたプリザーブド・フラワー
これもまた、過ぎ行くものをとどめたいと願う人の業



お花に限りません。
多くの方に支えられ、励まされています。
本当にありがとうございます・・・
posted by とんべり at 15:58| 千葉 | Comment(10) | TrackBack(0) | 日々の光景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月12日

5月1日 A

改装中らしい警察署はぺこぺこしたプレハブ造りで、霊安室は本屋とは別に、敷地の奥にひっそりとあった。
扉を開けると簡単な線香台があり、白いビニールシートをかけた人の形。
とても小さい。
警察の人が線香に火をつけて合掌する。
「いいですか?」
と私の方を向く。
小さくうなづくとそっとシートの端を折った。
ああ。
どうして。
なんでこんなことに。
きれいな顔で、額に引っ掻き傷はあるが、まるで疲れて眠り込んだ人のようだった。
「主人です」
「間違いないですか?」
間違える?この人の顔を間違える?
警察の人の言うことがさっきからどこかピントはずれで、自分が別の世界にずれ込んでいくような感覚が強くなってくる。
一瞬、シートを引き剥がしたい強い衝動を感じたが、一度病院に行ったならたぶん服は身につけていないことに気がつき押さえた。
シートの上から、組んだダンナの手を強く握り締める。
振り向くとムスコが硬い表情で立っていた。
ふたりで支えあうように霊安室を後にした。
玄関で父と母が待っていた。
「晃さんだった・・・」
父と母の目がガラス玉のようだった。

ちょっと話を聞きたいと通された部屋は階段下の物置みたいな小部屋で、警察の人が3人ほどと私とムスコが座ると、もう部屋はいっぱいだ。
ここでもまた、免許証のことや住所の何丁目何番地を聞かれる。
私の免許を持っていってコピーする。
私とダンナの免許の登録住所が違うのはなぜかと聞かれる。
ダンナが面倒くさがって住所変更しなかったと言ったつもりだったのだが、別居でもしていたのかと身を乗り出すのでアホらしくなった。
冷たく無関心で呆れた気分。
それがその時の私の心にあったものだと思う。その一方で、「死んだ死んだ」と頭の中で大きな声がずっと響いていた。

レースに出た経緯などをひと通り聞かれたところで、やっと事故の状況説明を受けた。
手書きの簡単な図を示しながら、「現場はものすごく暗いところでね」という。
まるで暗いところを走っているのがいけないように私の耳には響いた。
川の道は夜間走行があるので、参加者は反射板などを身につけて走るのは当然のことだし(大会のブックレットにも明記してある)、第一、ヘッドライトなどがないと自分自身が走行できない。
暗闇でもかなり目立つ格好をしているはずだ。
それに、ダンナは今回のレース直前、「川の道では反射板は必須だからね」となにやら仕掛けのあるオレンジとピンクの巻きつけ型の反射板を買ってきていた。
「現場は片道1車線の対面通行で、歩道はなくて道の端にガードレールがありました。ご主人の後ろを走っていたランナーが言ってますが、ご主人は道路の左端のガードレールぎりぎりを歩いていたようだ。そこへ走ってきた車、車種はエスティマなんだけれど、いったん左のガードレールにぶつかってご主人をはねたようです。」
そうか、目撃者がいたのだ。
ひき逃げされてひとりで淋しく死んでいったわけではなかったのだ。
「ブレーキは踏まなかったようです。しかも運転手は酒を飲んでました。べろべろってわけじゃないが、はっきり呼気にアルコールが出ました。同伴者もいました。現行犯逮捕して拘留してます。」
犯人も拘留されたのだ。
「轢かれた時、頭を強く打ったようだ。よくあることだけれどそのまま体がボンネットに乗って、運転手は気がつかずそのまま数メートル走って、ご主人の体が沿道の竹林に放り出されました。スピードは60キロくらい出ていた。ほとんど即死に近かったんじゃないか・・・死因は頚髄損傷・・・」
眠るような穏やかな顔だった。きっと苦しまなかった。良かった、せめてそれだけは・・・
「リュックと靴と着衣ですが、ご主人のものに間違いはないですか?」
見慣れたTシャツ、いつものランシューズ。
ザックを取り上げると、ハイドロチューブにちょっと血がついているだけで、ほとんど出血の跡がない。
一生懸命走っていたのだろう。ザックの背の部分が汗臭かった。
「これが加害者の名前と住所です。」
33才 地元の人だ。
33にもなって酒を飲んで無責任な運転をし人をひき殺した・・・夫を殺した・・・
「ブレーキも踏まず飲酒運転ってかなり悪質じゃないですか?」
一瞬険しい声を出すと、警察の人が
「だから逮捕して取り調べているんじゃないですか」
とむっとした答えが返ってきた。
犯罪なのだ、これは。
そうだった。
刑事裁判があるのだ。夫は犯罪の被害者になってしまった。
葬儀が終わればそれでおしまいということにはならない。
司法の場で罪と被害が「量刑」というもので計られることになるのだ。
刑事裁判は刑事罰だけなので、他に民事訴訟を起こさなくてはならないだろう。
きっと苦しい日々になる。
何度も何度も事故のことを振り向き、向き合う日々。
重苦しい荷が肩にのしかかってくる。

posted by とんべり at 11:52| 千葉 ☁| Comment(5) | TrackBack(0) | タヒチ走遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月07日

5月1日

ダンナが亡くなりました。

川の道のレース中、スタートしてまだ24時間経たない5月1日深夜2時、酒酔い居眠り運転の車にノーブレーキで後ろからつっこまれました。
ほぼ即死だったようです。





朝の4時半頃、電話の音でおこされた。
「埼玉の警察ですが」
の第一声に事故ったのだと思った。
山で滑ったか、また転んだか、本当にもう・・・
「奥さんですか?ご主人が事故で」
「どんな事故ですか?」
「車にはねられた」
「え?それで具合は・・・」
「かなり悪い」
「悪いってどれくらい?」
「病院は、亡くなったと・・・」

そんな・・・
そんなことがあるはずがない。
沈みこんでいくような気持ち。
月並みな表現だけれど本当だった。
ゆっくりと世界が自分から離れていく。
そんなはずがない。
でも、間違いではないだろう。
レース中なのでゼッケンに名前がついているし、主催の人にも連絡が行っているはずだ。
参加者50人くらいでスタッフもランナーも顔見知りのようなアットホームなレースなのだから間違いようがないのである。
「秩父の病院なんですが来てください」
電話を切った。
長野の父母に連絡しなきゃいけない。
でも、とてもできない。
ダンナは一人っ子だった。
父母は親代わりに年下の兄弟を養育しなくてはならず、ダンナにはそのしわ寄せがいってかわいそうだったといつも言っていた。苦労して育て、苦労させたことをいつも不憫がっていた。
うちの親より年も行っていて、父は風邪をこじらせて体調も優れない。
そんな父母にこんなことを伝えるなんて。
実家に電話したら「でも言わないわけにいかないでしょう!気をしっかり持ちなさい」と叱られた。
「警察に一緒にいこうか?」の問いに「行ってほしい」と甘えることにした。
長野の父母に電話した。
「え?嘘でしょう?死んだの?どうして?なんで?」
「レース中に車にはねられたようです」
まったく事実がしみこんで行かない様子の母を残して電話を切った。
それからムスコの部屋に行った。
寝ぼけているムスコの手を握ってしばらく何も言えなかった。
「お父さん、車にはねられて死んじゃった」
「え・・・」

どうやって身支度したのか覚えていない。
昨日つけたキラキラのネイルが指先で光るのを見て、タヒチの海みたいだと思った。
また電話があって、病院ではなく警察にきてくれという。
ああ、死んだのだ。やはり死んでしまったのだ。
携帯で調べると警察までは2時間半くらいの行程だった。
長い長い旅。
ずっと考えていた。
どうやって死んだのだろう。
その時は事故の状況をまったく聞いていなかったので、ひき逃げされ冷たい夜の中、電話もかけられず道端に転がったまま死んでいったのだろうか?などと思った。
前回、前々回とも夜も夜中もずっと心配で、寝る前にメールしたり電話したり、ふと目が覚めてメールをチェックしたりしていたのに、今回はすごく疲れていて、メールしようと思いながらケータイを開けたまんま寝込んでしまった。
もしメール1本、電話1本していたら、ほんの瞬間の差で事故は逃れたかもしれない。
もし私が寝込まなかったら。
それ以前に、もし私が止めていたら・・・
父母はレースに出るのを心配して、私に止めてくれといつも訴えていた。
私は「でもランニングはアルテマさんの生きがいなんですよ」と笑って取り合わなかったのだ。
私のせいだ。


夜が開け、朝になって、人が動き回る時間になっても、電話にはメールも通話も届かない。
それがなにより決定的だった。
人違いだったら、生きているなら、こんなにずっと連絡がないことはありえないから。
父母から電話が来た。
「お葬式しなきゃいけないのよ。どこでやる?長野に連れてこうと思うんだけど、どこでどんな式をやるかが問題よ」
まだなにも確認していない。
顔も見ていない。
何で葬式の話しをするのか分からない。
父母の田舎では誰かが亡くなると世話役が取り仕切ることがよくあるのだが、長年小学校教師をしてきたふたりは何度も式の世話をしてきた。
悪く言うと葬式慣れしてるのである。
たぶん「自分の息子」という部分をシャットアウトして「実行ボタン」を押されたロボットのように盲目的に行動しているのだろう。

9時過ぎ、やっと着いた警察署の入り口に実家の父と母が待っていた。
「私たちはここにいるから、まずあなたが行って確かめてらっしゃい」と背を押されて警察署の入り口をくぐった。
ソファに座らされあれこれ聞かれた。
免許証を持っていなかったがどこにあるのかとくどいほど聞かれた。
2週間ほど前、浪人が決定したムスコの予備校費用を払うため学資保険の請求をした。
その時、ダンナの免許証を郵便局に持って行ったのだが、ダンナがそれを回収したかどうかは分からない。
「家にあるかもしれません」
また違う人が来て、免許証のことや住所のことをくどいほど聞いてきた。
「数年前、近所に引っ越しましたが、夫は住所変更の手続きはしていなかったと思います。車も手放して運転しませんから」
住所は正式には何丁目何番地何号なのかとくどいほど聞いてきた。
人一人の生死より住所の何丁目何番地の方が大事な警察という存在に不思議な感じがした。
それからやっと「じゃあ顔見てもらって確認するしかないみたいだね」と腰をあげた。
「息子さんはどうする?今、何歳?」
「18歳です」平たい声でムスコが答える。
「じゃあだいじょうぶだろう」
そこでずっと気になっていたことをやっと口に出した。
「遺体の様子はどうなんですか?あまりひどいのなら子どもに見せたくありません」
というと
「それはだいじょうぶです」と言われたので、ムスコと二人で会いに行くことになった。


posted by とんべり at 11:48| 千葉 ☔| Comment(10) | TrackBack(0) | タヒチ走遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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